日本が石油を燈火に利用することは、比較的早くから行われていて、「日本書紀」にも越の国から“燃ゆる土”と“燃ゆる水”が天智天皇に献上されたの記述が見られます。石油の自然湧出がみられた新潟地方では、それを「くそうず」と呼び、手近な燃料として、湧き出ている原油をそのままカンテラや土瓶などに入れて灯していました。 西洋での石油に関する記録はきわめて古く、紀元前数百の昔から地中から滲み出た原油を建築や船の防水などに用いたことが誌されているし、神話・伝説、遺跡なども少なくありません。 しかし,石油が広く使われるようになったのは、西洋では約460~70年前で、日本では本格的な石油時代がくるのは明治時代からで,その石油ランプは輸入によってもたらされました。
石油ランプがいつ頃日本に入ってきたかについては諸説ありますが,万延元年(1860年)、林洞海が渡米した友人からもらい、臭水で点火したのが最初であるとされます。慶応2(1866年)には幕府が英米仏蘭との関税条約改定の付帯条件として,灯台航路標識を設置することとし,そのために英国より洋式灯台ランプを購入しており,これが灯台ランプ輸入の始まりとされています。
(「照明の史的研究」昭和2年,愛知県商品陳列所刊)
ガラス彩話② 明治のあかり
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開国とともに日本へもたらされた石油ランプは、これまでの蝋燭や行燈の薄暗い灯りのもとで暮らして来た人々に「毛一筋もみあやまつことなし」と感心させ、斬新なガラスのデザインと華麗な装飾は「美製の灯台」として感嘆せしめるに十分でした。 しかし幕末・明治初年に輸入された石油ランプは大変高価なものであり、一部の富豪や岩亀楼・金瓶大黒楼など外国人相手の花街など特殊な場所でしか用いられず、一般庶民が買えるようになるのは、いわゆる文明開化の風潮が現れて来る明治四年以降になります。ちなみに、明治天皇が断髪され、皇后がお歯黒、眉墨を落とされたのが明治六年三月のことであり、皇居で初めて石油ランプが用いられるようになったのが、これより一年前の明治五年でした。 明治七年の「東京日日新聞」は「近代紙張の行燈益々衰えて、玻璃燈日々盛んなり」とランプの一般庶民への流行を報ずるとともに「舶来のみならず和製のランプも出廻り、東京市内に普及す」と記しています。また明治十八年発行の「東京流行細見記」には「らんぷ屋」の売り上げランクまで上げられています。売上番付まで上げるほどですから相当の売上があったことが想像でき、明治中期になると東京市内のほとんどが石油ランプによる燈火に変わって来ました。一方、地方においても裕福な人がいち早く使用して宣伝の役を務め、そのうちにランプ屋さんなどの行商人や雑貨屋などで売り出されるようになって末端まで浸透していきました。 かくして日露戦争後の好況時代に一層ひろく用いられるようになり、全国的なランプ全盛の時代を迎えます。
随筆 「がらすやむかし語」
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「ランプ亡国論」
佐田介石は、天台宗の僧侶で、文政元年(1818年)肥後の一寺院に生まれ、京都に登り本願寺・天龍寺などで学問を習い禅を修めた。生涯99巻の書物を著したほど、天文地理・言語・宗教・経済に通じた博学多識の人であった。しかし佐田介石は、世を挙げての西洋文化崇拝に腹をたて、西洋の文物を用いて得々としている日本人を罵倒し、東京偏重の文明開化を痛烈に批判しながら舶来品排撃運動に邁進した。明治十三年七月十六日付の「東京日日新聞」に「ランプ亡国の戒め」と題する論文を寄せてランプ亡国論を展開するのであるが、この論理はさらに外国石油大害論へと飛躍するのである。「ランプ亡国論」を要約をすると、日本中の山間過疎地までランプが普及することによって莫大な金貨が外国に流出し、それがために金貨は大滅して金融は妨げられ、国産品は廃滅して失業者は増え、これによって泥棒となり罪人は増えるであろう。しかも、ランプは火災を起こしやすいから消防の手も及ばず、やがて国中は荒土とかし木材は値を上げ、また焼死人も出るであろう。第一ランプは目鼻の衛生上よくない。これらの損害を加算するとランプの流行は国を亡ぼすものだと論じているものである。佐田介石の思想は、憂国と愛民から発した国粋主義的な、国有産業保護のための排外的保守消極経済論であった。文明開化の象徴であるランプが、わが国の石油・ガラス産業の発達の過程に果たした歴史的意義を考えると「ランプ亡国論」は、単なる欧米主義依存への反動としか考えられない。
安政の開国によって日本にもたらされた石油ランプは、文明開化の灯としてもてはやされ、用いられて来たが、直接石油を燃やして燈火とする石油ランプは、悪臭を発し、空気を汚して、火災の原因となる危険性が常につきまとっていました。この致命的な欠点を担った石油ランプは、その後に渡来した臭いのない、空気を汚さない、しかも光力の強い電燈という近代的な燈火によって押し流され、大正初期にはその終焉期として明治を謳歌した石油ランプの灯は、一つずつ消えてゆくことになりました。この電燈が最初に灯ったのは明治十一年三月十五日、東京中央電信局の開局祝賀会で電池でア-ク灯に点火されました。その後、一般家庭に電気が供給されるようになったのは、明治二十年十一月、東京電燈会社が竣工してからのことで、アメリカよりわずか五年遅れただけでした。また、青白く街の辻々を照らしたガス燈も石油ランプと同じように文明開化の灯でした。しかしその恩恵を受けたのは、銀座・日本橋界隈だけであり、当時は戸外にある門燈・軒燈・街燈などを称してガス燈と称していたが、ガラス張りの中に入っているのは石油ランプで、夕方になると点灯会社の点灯夫が脚立を肩に、手提げランプを持って現れ火を入れに回ってきました。やがてこのガス燈も石油ランプ同様に燈火としての役目は電燈へと変わっていきました。
ランプ(英語:lamp)は電気・油脂・ガスによる光源と、笠やホヤなどの保護装置がある照明器具。西洋風のものは洋灯(ようとう)ともいう。日本では、日本や中国などの伝統的なデザインのものはランプと呼ばないことが多いが、「オリエンタルランプ」などと呼ぶこともある。液体燃料を用いるものは油(近代には主に灯油)、固形燃料、ガスなどを燃料とし、燃料に応じて、オイルランプ、アルコールランプ、灯油ランプ(石油ランプとも)、ガスランプなどという発光部と燃料タンクが一体化した構造が多い。ガスランプの場合は、圧縮ガスを蓄えるタンク(ボンベ)を接続したものが多いが、外部からガス管で供給する構造のものもある。
石油を金属製またはガラス製の油壺に入れ、口には口金(くちがね)をつけ、灯芯を差し込み点火し、燃焼部を「ほや」(ガラス製の筒)で囲って風で吹き消されるのを防ぐ。灯芯はねじで上下した。すすで汚れたほやの清掃は手の小さな子供の仕事であった。種類としては吊り下げるものと、据え置くものとがあった。一般にロウソクのほうが高価であるため、ランプは貧しい家庭の照明を担っていた。特殊な用途では、炭鉱や鉱山などで酸素濃度低下や可燃性ガス濃度上昇を検知する簡易検知器として灯油を燃料に用いる小型携帯安全灯(開発者の名を冠して、デービー灯またはウルフ灯とも称されている)が用いられていた。
日本に渡来したのは万延元年(1860年)、林洞海が渡米した友人からもらい、臭水で点火したのが最初であるという。慶応頃からしだいに普及し、その明るさを賞賛され、明治5年には家々で点火され、明治15年(1882年)ごろにはランプ亡国論なるものさえもちあがった。平芯から円芯、両芯がおこり、空気ランプから白熱マントルランプが現われ、その一方では携帯用のカンテラも派生し、電灯が普及するまでは王者の位にあった。現在でも電気が利用できない奥地の山小屋などでは現役で用いられている。
現在はランプ、ランタンの光源は、電気で発光する電球、放電灯、LEDなどが普及したが、電力の普及していない国や地域では、未だにロウソクを使ったキャンドルランプ、ランタンや燃料式ランプ、ランタンが多用されており、また、アウトドア関連のレジャー用途から電力消失時の非常用または軍用などにおいても根強く使用されている。現在のレジャー用燃料式ランプの主流はより明るさを求められた結果、カートリッジボンベ式のガスランタンや加圧式ホワイトガソリンに移っているが、取り扱いの容易さや燃料価格の安さから灯油ランタンも引き続き使われている。
近年LED方式の懐中電灯やランタンが登場し、これらは全般的に軽量で消費電力が少なく、衝撃にも強く故障が少ない、また明るいという利点を持っており、燃料式ランプのメリットは失われつつある。LED式のもの中には、充電池を併用した太陽電池や手回し発電機を備えていて、乾電池の補充や交換が不要なものもあり、災害時や登山時にも活用されている。
【Wikipedia 引用】
【あかり】
現在、フォトギャラリ-に掲載しております写真は、大門蔵内の仕分作業中のためまだ一部しかアップされておりません。作業が完了したものから順次アップして参りますので、大変に申し訳ございませんが全品掲載まではもう暫くお待ちください。
詳しくは「善光寺大門蔵
「洋燈考」の著者大谷勝治郎氏からの手紙が、先日5代目篠原基國の遺品のなかから見つかりました。大谷勝治郎氏が長野オリンピック観戦に長野に来られた際に当店のウィンドウに目を止め突然来店をされました。翌春(1999年4月)ご丁重に下さった御礼のお手紙です。
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洋燈蔵 蔵書:「洋燈考」
本著「洋燈考」は、洋燈、石油ランプの歴史・種類・体系を知るうえで貴重な一冊です。当HPでも多くのものを引用させていただいてます。
abn長野朝日放送「いいね!信州スゴジカラ」12月19日放送【書道のまち長野市篠ノ井の書在地】で当店所蔵の川村驥山扇揮毫「福喜受栄」額と貴重な驥山扇のプライベート8mmが当店元会長夫人のインタビューと供に放映されました。
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「川村驥山扇 揮毫」