はじめに

アントニオ=ネリ
「ガラスの技術」
1662年

はじめに、「ガラスとは何だろう?」 ガラスという光を透過して屈折させる不思議な物質と係わって、人類はすでに四千年を遙かに超える歴史を持っている。けれども「ガラスとは何か?」という問いに対して明確に答えることは難しい。17世紀初期(1612年)アントニオ=ネリは、「ガラスは炎の芸術が作り出した真なる果実である。あらゆる工芸品のなかで、ガラスほど鉱物に似ているものはほかにない。ガラスほど金属に似ているものはない。何故なら、ガラスは日に融け、火に耐え、完成された金のような輝きを得るからである」と著書の中で記している。これはルネッサンス初期の錬金術師達の見解であった。今日のガラスはあまりにも日常的であるためその不可思議な本質を忘れがちであるが、遙かな昔に作り出されたこの人工の物質が、今日の科学技術をもってしてもなお明確に定義できないのである。その原因は、ガラスは結晶質ではないため原子構造が一定ではなく、まるで絡み合った小宇宙の集合体であり、宇宙さながらに混沌としているからだという。ガラスにはこの未解決な分野が残されているだけに、かえってこれからの可能性が期待されるのである。ガラスはこれからの人類の未来に大きな変革をもたらし、新たな豊かさを約束するものであるといえよう。          

日本のガラス小史 ①  

日本のガラスの歴史は縄文時代までさかのぼる。日本最古と思われるガラス小玉が縄文晩期の亀ヶ岡遺跡から出土している。また弥生時代になるとおびただしい量の玉類が出現してくる。その後、正倉院に多数伝存されている大量のガラス玉からして奈良時代にはガラスの製造がかなりの活力を持っていたことがわかる。しかし、ときどき小さな宙吹きガラスはあっても勾玉、管玉、玉として神仏の祈りのなかに閉じ込められたまま平安、鎌倉、室町と続き、江戸時代の宝永から正徳始めに商品としての宙吹きガラスがつくられるまで生活道具としてのガラス容器がつくられることはなかった。日本人が容器としてのガラスを知るのは天文18年(1549年)のザビエルの来日を期にしてである。その後も宣教師たちは、ときの権力者に対しガラス工芸を贈った。(織田信長にはコンペイトウ入りのフラスコなど)しかし、従来の鉛分の多い玉の素材で作られた日本のガラスは、熱や衝撃に弱い決定的な欠陥から、生活道具としてのガラスの容器を自分たちの手で作り出すことは出来なかったのである。日本人がガラスを作り始めたのは江戸期に入り17世紀後半の長崎であったと推測される。長崎で始まった近世日本のガラス製法により藍色や琥珀色のガラスがつくられるようになり、その技法が18世紀前半(正徳)には京、大阪へと伝播していった。正徳から寛政期にかけて、大阪でさまざまなガラス器が作られていたが、それを明示し得る遺品がほとんど見当たらない。所詮ガラスは日常の雑器であり、消耗品であったためであろう。江戸でガラスの製造が始まったのも同じく正徳の頃で、当時人気を博した歌麿、北斎などの浮世絵版画のなかで「びいどろ」と「美人」を組み合わせ、江戸庶民のガラスとの交換の場面を描いた。享保の頃、長崎のびいどろ師が三都でびいどろ製法を見世物として興行し大当たりをした。江戸庶民の血を騒がせたぎやまん細工の見世物がようやく下火になったころ、現実の生活容器としてガラスが普及し始める。薄手のガラスから次第に厚手のものが成形できるようになり、様々な加飾がこれに施されて近世の日本のガラスも多彩な展開を見せ始めるのである。ところが、そのガラスはもともと熱・衝撃に弱く、実用には適していなかった。その実用にそぐわないガラスを持って実用化したところに江戸時代の日本のガラスの不思議さが隠されている。なぜ使えないガラスが、大名や豪商から一般庶民まで150年の長い間に渡って愛好され、使われて来たのだろうか。その理由は西洋のガラスと使われ方が全く違っていたことにある。ヨ-ロッパでは陶磁器よりもガラスの技術の方が発達して、生活にはなくてはならない必需品となっていたが日本ではこれに代わる陶磁器や漆器類の生産が盛んに行われていたので、容器としてのガラス器を必要としていなかった。したがってガラスはあくまでも遊び道具であり、使って壊すリサイクル商品にすぎなかった。それでもこれらは豪商たちの高価な贈り物になり、宴席では杯や杯洗に使用され、鉢・皿として客人に供され、庶民は金魚鉢や楽器(ポピン)として求めたのも日本人の洒落た遊び心があったと言える。高度な消費文化に支えられ、壊れることをものともせず使い切った。つまり「錦絵を買い求めることに始まり、花火・花見・大山参りと江戸庶民の行動文化に触発されて発展した」のが江戸時代のガラスと言える。また、江戸時代に日本のガラス工業技術における草分けであった人物が佐久間象山である。徳川時代の蘭学者でガラスに関する書物を書き、ガラスに関する記事を載せた書物を著した人は多数あったけれども自ら手を下してガラスを溶融し、ガラスのことを実際に試験したのは佐久間象山だけであった。

佐久間象山 詳しくはこちら

【訂正とお詫び】「日本ガラス小史①」本文7行の天文18年ところを誤って天保18年と掲載をしておりましたので訂正とお詫びを致します。

GALASS OF JAPAN「日本のガラス」       P167 正倉院宝物

GALASS OF JAPAN「日本のガラス」       P179 ぎやまん浮世絵

GALASS OF JAPAN「日本のガラス」       P1 藍色チロリ 江戸時代

日本のガラス小史 ②


「品川硝子製造所」
明治22年
  (1889年)      

明治のガラスは、「品川硝子」を抜きに語ることはできない。それどころか、近代ガラス工業は「品川硝子」から始まったというべきであろう。その歩みは決して平坦なものでわなく、わずか12年間で官民併せて5回の名称変更が余儀なくされている。この「品川硝子」の目まぐるしい変革は日本におけるガラス製造業の近代化への苦難の行程を象徴的に示したものであった。明治20年代から大正期を通じて、ガラス瓶をはじめ、各種器類の生産が飛躍的に発展した。明治20年代前半にはドイツより坩堝十本を備えたシ-メンス式のガラス窯が導入され、40年代には圧搾空気による機械吹製瓶技術が開発された。さらに大正期には全自動による成形法が採用され、皿やコップ類の量産化が大いに促進された。ガラスの原料も江戸期の伝統的な鉛ガラスに替わってソ-ダガラスが一般化し、加飾法や色ガラスにも長足の進歩がみられた。この時代にガラスが大活躍したのは燈火器の分野でした。国内で急速に普及した石油ランプは、明治20年代後半から30年代にかけて全盛期を迎え、生活の必需品となっていったのです。油の消費量が一目で分かるガラスの油壷は人気があり、壊れやすいために需要が耐えることがなく、明治のガラス工業を支える主要分野となりました。明治後期から大正初期にかけては、ガラス産業がさらに飛躍した時代となりました。この頃ようやく板ガラスの商品化が国内で可能となり、プレス機械の改良や製ビン機械の導入も始まって、ガラス生産額は急増します。さらに、第一次世界大戦の勃発で、日本のガラス産業は世界市場に進出するようになり、ガラスの品質は必然的に向上していきました。とりわけ、大正期の氷カップにみられる色ガラスを使った被せや色ぼかし、糸巻き、かきあげ、あぶり出しといった様々な装飾の流行は、諸外国に例をみない日本特有の現象であった。こうして安価でカラフルな食器が日常のすみずみまで浸透し、ガラスは生活のなかの雑器として極めて身近な存在になった。このような時代の背景の中から「美術工芸品」としての「ガラス」を志向する動きが芽生え始める。昭和初期には、「色ガラス」の岩田籐七や「クリスタル」の各務鉱三らが日本のガラス工芸確立のために活躍した。百貨店の美術部では取り扱われず、家庭用品売場で催されていた「げてもの」扱いのガラス工芸も、ようやく美術工芸品として市民権を得て、更に個性豊かな多くの後継者が登場し、第二次大戦後の新世代へと引き継がれた。

「ギヤマン・ビロ-ドを先祖として生れ出た日本のガラスも今や空前の飛躍を遂げて、ここに新時代の感覚と意識を代表するかのやうに新しい日本のガラス製品はあらゆる方向にに向かってその領域をひろめやうとしている」   昭和8年「ガラス」共立社書店  杉江重誠 著

GALASS OF JAPAN 
「日本のガラス」
P116 岩田籐七 作品

GLASS OF JAPAN
「日本のガラス」
P118 各務鉱三 作品

玻璃器蔵フォトギャラリ-

 

    【うつわ】

お知らせ及びお詫び

現在、フォトギャラリ-に掲載しております写真は、大門蔵内の仕分作業中のためまだ一部しかアップされておりません。作業が完了したものから順次アップして参りますので、大変に申し訳ございませんが全品掲載まではもう暫くお待ちください。 

詳しくは「善光寺大門蔵

大谷勝治郎氏の手紙
2023/04/23

「洋燈考」の著者大谷勝治郎氏からの手紙が、先日5代目篠原基國の遺品のなかから見つかりました。大谷勝治郎氏が長野オリンピック観戦に長野に来られた際に当店のウィンドウに目を止め突然来店をされました。翌春(1999年4月)ご丁重に下さった御礼のお手紙です。

詳細はこちら
洋燈蔵 蔵書:「洋燈考」

「洋燈考」大谷勝治郎著
大谷勝治郎氏落款

本著「洋燈考」は、洋燈、石油ランプの歴史・種類・体系を知るうえで貴重な一冊です。当HPでも多くのものを引用させていただいてます。

フォトギャラリー更新
2023/02/19

フォトギャラリー 2⃣あかり2-6 石油ランプの部品 

日本橋瀧澤商店 特注ホヤ
らっきょ型・涙型

大門蔵

大門蔵2階の藁俵を解体しましたら大量の日本橋瀧澤商店特注の店名入ホヤが出てきました。

フォトギャラリー
2⃣ あかり
2-6  石油ランプの部品

洋燈蔵
日本の洋燈の構造

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abn長野朝日放送「いいね!信州スゴジカラ」12月19日放送【書道のまち長野市篠ノ井の書在地】で当店所蔵の川村驥山扇揮毫「福喜受栄」額と貴重な驥山扇のプライベート8mmが当店元会長夫人のインタビューと供に放映されました。
 

看板&家宝
「川村驥山扇 揮毫」

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NHK「チコちゃんに叱られる」2月28日放送【石油ランプの秘密】で当店HPの石油ランプの資料が使用されました。