明治維新後、文明開化の旗印のもとですすめられたスピ-ドは想像以上に速いものだった。まだ江戸時代の暮らしが抜けきらない人々の目の前に次から次と西洋文化が現れたのである。こうした中で人々の生活を決定的に変えたガラス製品は石油ランプ(洋灯)であった。今では「ほのかな」としか表現のしようもないランプの光も、それまで松の根や行灯、そしてせいぜい蝋燭の明かりぐらいしか知らなかった人たちは驚くほどの明るさだったのである。最もランプが盛んだったのが日露戦争後の好況期でもう手放すことのできないものになっていった。そして特に壊れやすいホヤは消耗品として、明治のガラス産業の重要な品目になっていった。また、こうした実用本位のものだけでなく、美しい色ガラスを使い、手の込んだ装飾を駆使した贅沢な座敷用ランプも多く作られた。これらは明治ガラス工芸の達した高い精練度を示す格好の資料となっている。
明治は「あかり」の面でもめまぐるしい変化がみられた。行灯、蝋燭から無尽灯、石油ランプ、ガス灯、電灯へと、新しい灯火がつぎつぎと採用され重なり合いながら発展した時代だった。長谷川時雨が「あたしの家にも洋燈の部屋もあれば、行燈もあるし、時によると西洋蝋燭をたてた硝子のホヤのある燭台も出たりしていた」と記しているのは明治頃の東京の様子であったがやはり中心となっていたのは石油ランプであった。ひとくちにランプといっても芯の種類はさまざまであり、用途に合わせて経済的に使い分けることができ、実用一点ばりから美術作品のようなものまで細工しだいの自由さがあった。あまりの流行ぶりを危ぶんで国粋主義者の佐田介石はかつて「ランプ亡国論」を持ち出したほどだったが、このランプも明治末期からしだいに電灯にとってかわられていく。そのスピ-ドはほかの国に比べても驚くほど早かったのは、木造家屋の日本において何より火災の危険がないためだった。佐田は「燭台や行燈すててランプたき我が家を焼きて野宿する人」とうたったが、美しいガラス製ランプもその壊れやすさはやはり致命傷であった。
別冊太陽「明治・大正のガラス」井上暁子著
佐田介石は、天台宗の僧侶で、文政元年(1818年)肥後の一寺院に生まれ、京都に登り本願寺・天龍寺などで学問を習い禅を修めた。生涯99巻の書物を著したほど、天文地理・言語・宗教・経済に通じた博学多識の人であった。しかし佐田介石は、世を挙げての西洋文化崇拝に腹をたて、西洋の文物を用いて得々としている日本人を罵倒し、東京偏重の文明開化を痛烈に批判しながら舶来品排撃運動に邁進した。明治十三年七月十六日付の「東京日日新聞」に「ランプ亡国の戒め」と題する論文を寄せてランプ亡国論を展開するのであるが、この論理はさらに外国石油大害論へと飛躍するのである。「ランプ亡国論」を要約をすると、日本中の山間過疎地までランプが普及することによって莫大な金貨が外国に流出し、それがために金貨は大滅して金融は妨げられ、国産品は廃滅して失業者は増え、これによって泥棒となり罪人は増えるであろう。しかも、ランプは火災を起こしやすいから消防の手も及ばず、やがて国中は荒土とかし木材は値を上げ、また焼死人も出るであろう。第一ランプは目鼻の衛生上よくない。これらの損害を加算するとランプの流行は国を亡ぼすものだと論じているものである。佐田介石の思想は、憂国と愛民から発した国粋主義的な、国有産業保護のための排外的保守消極経済論であった。文明開化の象徴であるランプが、わが国の石油・ガラス産業の発達の過程に果たした歴史的意義を考えると「ランプ亡国論」は、単なる欧米主義依存への反動としか考えられない。
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【あかり】
現在、フォトギャラリ-に掲載しております写真は、大門蔵内の仕分作業中のためまだ一部しかアップされておりません。作業が完了したものから順次アップして参りますので、大変に申し訳ございませんが全品掲載まではもう暫くお待ちください。
詳しくは「善光寺大門蔵
「洋燈考」の著者大谷勝治郎氏からの手紙が、先日5代目篠原基國の遺品のなかから見つかりました。大谷勝治郎氏が長野オリンピック観戦に長野に来られた際に当店のウィンドウに目を止め突然来店をされました。翌春(1999年4月)ご丁重に下さった御礼のお手紙です。
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洋燈蔵 蔵書:「洋燈考」
本著「洋燈考」は、洋燈、石油ランプの歴史・種類・体系を知るうえで貴重な一冊です。当HPでも多くのものを引用させていただいてます。
abn長野朝日放送「いいね!信州スゴジカラ」12月19日放送【書道のまち長野市篠ノ井の書在地】で当店所蔵の川村驥山扇揮毫「福喜受栄」額と貴重な驥山扇のプライベート8mmが当店元会長夫人のインタビューと供に放映されました。
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「川村驥山扇 揮毫」