大正3年「瀧澤本店」を日本橋から長野支店に移転し、店名を「瀧澤硝子店」に改名創立に際して、三代目 篠原喜十郎が当時親しかった松本在住の書道家 秋山白巖に依頼して看板の字を揮毫してもらった隷書体の看板。
「書の風景 善光寺表参道」 岩下松永著
ガラス店 瀧澤商店の看板は、秋山白巖(1865~1954年)の書である。(中略) 大門町周辺には暖簾のかかる店が多い。店構えに一役買い、門前町の町並みを演出する。老舗が年の変わりめなどに揚げる「暖簾」は、新たな年の幕が開けるときの何かピンと張りつめた雰囲気を醸し出し、初詣に善光寺に向かう人々に語りかける。老舗ならではののれんである。
当店と驥山扇とのご縁は、驥山扇が1945年(昭和20年)に長野県(現長野市篠ノ井)に疎開をして来られて、後に住居を構えられた時まで遡ります。 当時は、終戦後の物資不足でガラスも少なく、遠く長野市内の当店まで驥山扇が足を運ばれて、「家はできたのだがガラスがなくて、寒くて困る」と窓ガラスの工事の依頼をされました。 驥山扇から直接の依頼でしたので、当時の店主(4代目 一英)は、店員ではなく自らが長男(5代目 基國)とリヤカーに一戸分のガラスを積んで、篠ノ井まで工事に伺いました。工事も無事終わると、驥山扇は大変に喜んで下さり 「ありがとう」と一言おっしゃったまま、代金のことには何も触れないので4代目店主は、「やはり芸術家の方は、自分たちと違いこうゆうものなのかな、でもとても喜んでもらえて良かった」と思って、差し上げたつもりで帰って来ました。
その後、何年かが経ちそのことも忘れかけていたある日、突然に驥山扇が来店されて「良い書が書けたらお持ちしたいと思い、遅くなりましたが」と、ガラスのお礼に自詠の額と掛け軸をわざわざ当店へお持ちいただきました。 5代目 基國 談
(長野市民新聞 1996年 掲載)
この驥山扇自詠の額と軸の2点は、瀧澤商店の「家宝」として大切に収蔵しております。 また、その後昭和36年3月に5代 基國が家族旅行で上京する汽車の車中で偶然にも驥山扇とご一緒になり、その時撮った8mmフィルムもほんの数秒の映像ですが、驥山扇の笑顔とともに大切な思い出としてしまっております。
静岡県袋井市出身。書家。別号に酔仏居士・酔驥等。 本名は慎一郎、4歳の頃より幼いころから父である漢学者の川村東江より書道、漢学を学び、さらに太田竹城、岡田良一郎らに冀北学舎にて漢字と書を学ぶ。5歳にて「大丈夫」を書く。12歳で明治天皇の銀婚式に「孝経」を楷書で、「前後出師表」を草書で諳書して献上し、天覧の栄とお褒めの言葉を賜り遠州の神童川村二葉の名が全国に広がる。 川村驥山の書は、鍾繇(しょう-よう)風の楷書や懐素風の草書,狂草を最も得意とし、独特のおもむきがあった。 戦前は書道作振会,東方書道会などに所属。戦後は日展に出品する。昭和6年、外務省派遣文化使節団員として訪中。昭和23年から同展の審査員をつとめる。昭和26年、書道界最初の日本芸術院賞を受賞。昭和37年、日本芸術院会員。 昭和44年4月6日死去。86歳。 勲三等瑞宝章受章。没後従四位を追賜。
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「驥山館」
「洋燈考」の著者大谷勝治郎氏からの手紙が、先日5代目篠原基國の遺品のなかから見つかりました。大谷勝治郎氏が長野オリンピック観戦に長野に来られた際に当店のウィンドウに目を止め突然来店をされました。翌春(1999年4月)ご丁重に下さった御礼のお手紙です。
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洋燈蔵 蔵書:「洋燈考」
本著「洋燈考」は、洋燈、石油ランプの歴史・種類・体系を知るうえで貴重な一冊です。当HPでも多くのものを引用させていただいてます。
abn長野朝日放送「いいね!信州スゴジカラ」12月19日放送【書道のまち長野市篠ノ井の書在地】で当店所蔵の川村驥山扇揮毫「福喜受栄」額と貴重な驥山扇のプライベート8mmが当店元会長夫人のインタビューと供に放映されました。
看板&家宝
「川村驥山扇 揮毫」